ご由緒

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御祭神

宗像大神(むなかたのおおかみ)

  • 田心姫命(たごりひめのみこと)
  • 湍津姫命(たぎつひめのみこと)
  • 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)

八幡大神(はちまんのおおかみ)

  • 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
  • 神功皇后(じんぐうこうごう)
  • 応神天皇(おうじんてんのう)

住吉大神(すみよしのおおかみ)

  • 表筒男命(うわつつのおのみこと)
  • 中筒男命(なかつつのおのみこと)
  • 底筒男命(そこつつのおのみこと)

斎主神(いわいぬしのかみ)

当社は10柱のお神様をお祀りしております。

ご由緒

大富神社は豊かな田園風景が広がる一帯に鎮座しております。
米が富の象徴であった時代は旧豊前之國の大きな富が生まれる土地の鎮守として崇敬を集めてまいりました。

神社の由緒を記した縁起によると、古時、宗像大神より真早という者に「山田原に住む、早く宝基(神殿)を建てよ」との神託が下り、宗像大神をお祀りしたとあります。第40代天武天皇白鳳元年(672年)には、横武行次という者に神託が下り、八幡大神・住吉大神・斎主神を合祀いたしております。

当社の創建年は定かではありませんが、縁起の冒頭部分に、第10代崇神天皇5年(紀元前93年)にこの地で疫病が流行り、国主が当社に祈らせたところ、疫病が止んだとあり、2千年以上の遥か昔よりお祀りされてきたと考えられます。

境内の南の山の頂には「船石(ふないし)」と呼ばれる磐座があり、神功皇后がこの石の上で祈ったところ船の如く動いたという伝承も残ります。

延長5年(927年)に纏められた延喜式神名帳(当時の官社を纏めた一覧表)には当社の社名は確認できませんが、延喜元年(901年)に纏められた六国史(日本書紀から始まる朝廷が纏めた六つの一連の史書)の第六の史書である『日本三代実録』には、「貞観2年(860年)豊前國大富神に従五位下を授く」と残されています(国史見在社)。

豊前之國の一之宮であった宇佐神宮との関係も深く、往古より宇佐神宮に勅使(天皇陛下の使者)が参向される際、境内の井水を以て炊事に用い、あるいは茶水と為したことから「勅使井(ちょくしい)」と呼ばれる井戸が境内に残っております。現在でも10年毎に宇佐神宮への勅使参向がありますが、この井戸より御神水を汲み献上いたしております。

時の権力者からも厚い保護を受けてきた当社は、しばしば社殿を造営されています。特に四百年余に渡り当地を治めた宇都宮氏の崇敬は厚く、社殿造営の記録が現存する棟札からも判ります。宝永6年(1709年)の絵図には神殿・拝殿・廻廊・楼門が描かれており、現在の規模よりも壮大であったことが伺えます。

現在の御本殿は嘉永5年(1852年)に再建されたもので、総ケヤキ造の社殿には緻密な彫刻が多く施され、檜皮葺きの屋根の構造は、入母屋造の正面に唐破風・千鳥破風を取り入れた荘厳な造りとなっています。

明治16年には懸社(けんしゃ)に指定され、昭和36年には神社本庁の別表神社となりました。

2千年以上の長きに渡り豊前の鎮守としてこの地に生きる人々をお守りし、富の価値観が変わってきた現代においても「大きな富」・「豊かな心」のお神様として、広く崇敬を集めております。